読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

勝手にシクラメン

「勝手にしくされ」をオブラートに包んだ表現。備忘録。

「あたためますか?」

先日コンビニに寄った。この時期には中華まんをキメたいところだと思いつつも、おにぎりを買うことにした。炒飯のおにぎりはおいしい。唇が油でテカるのはご愛嬌だ。

ほんの数分、レジにてあたためますか?と聞かれる可能性を考える。通常8割強の確率で聞かれるだろう。レジが混んでいる訳でも無く、夕飯に、と求めるひとも多い時間である。これは聞かれるに違いない。ドキドキと鳴る胸を押さえつつ会計に臨んだ。聞かれなかった。
そういえばこの店員は此処でのバイト歴が長いらしく、良く常連と思しき客と楽しげに話しているのを見掛ける。時折訪れるようになって一年ほど経つが、私は未だに親しげな声掛けを受けた事が無い。そんなものか、とすこし肩を落としたのを思い出す。
勝手な期待をして勝手に裏切られた気になり勝手に落ち込む。セルフネガティブサイクルである。代わりにと言うべきか、引いたクジでお茶が当たった。落胆と天秤に掛けて、はかりかねるまま、あたたかくはないおにぎりを自家用車内で食べた。
エンジンを掛けて、帰路につく。見慣れた道のりを通る時は運転をしながらでも、ほんのすこしだけ、何かを考える余裕が生まれる。
店員には店員の思惑があり、私には私の思惑がある。誰と接する時でも、そうなのだ。親しい友人でも、家族でも、職場の人間でも、またその他のひとでも。それぞれの思惑が、大なり小なり、食い違っただけのこと。それで落ち込む自分は、器が小さいのだ。帰宅する頃にはそのような結論が出てまた肩が落ち、地に埋まった。

この世は不平等だと思う。けれど、その不平等さというのも大概主観的な話だ。
では具体的に何が不平等なのかと問われて。答えはしても、私のそれはきっと時々うつろう感情に基づいた、あやふやな言葉にしかなるまい。
もし、こんなふうに聞かれたすべてのひとが「この世は不平等だ」と言うのなら、ある意味世界は平等なのだろう。詭弁にも似ているだろうか。全体を見る時の視点と、個々の例を見る時の視点を混同しては、自分の考えの支柱があまりに脆いと思い知る。脆いどころか、ありもしないおそれも考えられる。あれやこれやと目移りばかりで、頭の中身も滑り通しだ。

忘れているだけで、私はいつか、繰り返しあたためは要らないと言ったのかしれない。自覚がなかっただけで、ひどく不機嫌な顔をしていたのかもしれない。
だとすれば、コンビニ店員への落胆はそもそも御門違いなのだ。ひとは、と括るのが不躾なら、私は、よくよく自分に不都合なことを忘れる。
いつだって。どうしても自分のことばかり、考えてしまう。自分が嫌いだと言いながら、幾つも嫌いな点を並べ立てられるのは、自分のことばかり考えている証拠だろう。どうしたってやさしくなれないし、色々なものから、逃げてばかり、いるのだ。


ブランケットの上で丸まった猫が、ぷうぷうと寝息を立てている。そういえば昨晩は星がやけに綺麗に見えていた。私でも結び方のわかる、砂時計の星が目立っていた。今は、雨の音がする。
こんな記事を書いたそばから、考えることが深まる前に横滑っていくのだ。まったく、どうしようもない限りである。